ペンシルロケット発射60周年を機に実験場所の正確な位置を調べました

科学ジャーナリスト
寺門和夫

国分寺市でペンシルロケットの水平発射実験が行われた頃、私は国分寺市立第四小学校に通っていました。とはいえ、まだ3年生になったばかりで、当時は何もわからず、日本のロケット開発の原点ともいえるこの実験が、自分の住んでいた近くで行われたとことを知ったのは、だいぶ後になってのことです。

ペンシルロケットの実験は、現在早稲田実業学校高等部のグラウンドになっているあたりで行われました。子供の頃に地元に住んでいたものとして、私は長い間、実験が行われた正確な場所を知りたいと思っていました。実験が行われた試射場は埋められてしまったために、「だいたいこのあたり」ということは分かっていても、「ここです」とは、なかなか言えなかったのです。

60周年を迎えるにあたって、私は国分寺市にご協力をいただきながら、ペンシルロケット実験が行われた場所を正確に求めるための調査を行いました。当時の地図、JAXA宇宙科学研究所に残っている実験時の写真、航空写真などを分析し、さらに当時のことを知っている方々にお話を聞きました。

その結果、実験場所の正確な位置が明らかになりました。その場所がどこであるかは、2015年4月11日から4月19日まで国分寺市立本多公民館ホールで開催される企画展「ペンシルロケット60年目の待ち合わせ in 国分寺」でパネル展示しました。

 ペンシルロケットの実験が行われた場所

ペンシル水平発射実験は、なぜ国分寺で行われたのでしょうか?国産初のロケットであるペンシルロケットは、その推薬のサイズから、長さ23cm、直径1.8cmときわめて小型のものになりました。このサイズでは、計測装置をロケットに内蔵することはできず、飛行の様子を観測するには、外部から計測を行う必要がありました。そのため、糸川教授はペンシルを水平に発射することを考え、実験を行える場所を探すことにしました。

その糸川教授に、新中央工業の試射場の存在を教えたのは、後に日本ロケット協会の代表幹事などをつとめた馬淵良逸氏でした。馬淵氏は戦前、陸軍省に所属していた関係で、国分寺に新中央工業の使われなくなった試射場があることを知っていました。 糸川教授は1955年2月に試射場を調査し、ここでペンシルロケットの水平発射実験を行うことを決めました。

ペンシル実験が行われた半地下のコンクリート構造物は、今も「遺跡」のようにグラウンドの下に眠っています。今回明らかになった場所を、将来、地中レーダーなどの方法で実際に確認していただけないだろうかと、私は思っています。